跡地

らいとです

車輪に埋もれる時代

GPT-6の登場により、つい一カ月前に変更したリサレコ五カ年計画を、またしても変更せざるを得なくなった。もはや5年後の計画など、鬼が笑い死にするほど無理な話である。

では実際、今どうなっているか。皆、嬉々として車輪の再発明に励んでいる。やれスマブラができただの、スーパーマリオが作れただの。

いや、それを作ってどうするのか。しかもバリバリの著作権侵害である。

翻って私はどうかといえば、やはり車輪を使っている。ただし、他の人には使えない四角い車輪である。

そうした車輪も、これまでは作るのが大変だったが、今やAIの素人でもかなり楽に作れるようになった。


AIで自分専用のツールを作る流れは、今後ますます加速していくだろう。

究極のツールが来ても真に「誰でも作れる」時代は永遠に来ない

現在のAIにも苦手なことがある。それが画像の透過だ。透過とは、背景を透明に処理して、後ろが見えるようにすることだ。

「透過して」と言うと、透過画像によくあるグレーと白の市松模様を背景に描いて「透過しました」と言いやがるのである。

で、「できてないよ」と言っても何度も失敗する。無駄なトークンを消費する。

この程度の作業、自分でやればいいのだが、無料のアプリを使ってみたら、これが非常に勝手が悪くてうまくできなかった。だからといって、透過だけのためにフォトショップを使いたくない。やつはすでにクビにしてある。再雇用はしたくない。

 

それではどうすればいいか? AIでそれ専用のアプリを作ればいいのである。 というわけで、今は正確に透過処理をするアプリをAIで制作中である。

 

ここまでやってみると、自分がこれまでにどれだけの知識を身に付けてきたかがわかる。ハード、OS、アプリケーション、画像、音声、処理方法など。

 

知っているからこそ、AIに仕事を具体的に伝えることができる。これはAIに限らず、人に仕事を依頼するときも同じだ。 ゲーム制作も同じで、こうした知識がなければ作れない。

 

つまり、ツールがそろっていても「誰でも作れる」とはならないのだ。

 

過去にも、ボーカロイドの台頭やDTMの充実によって「誰でも作曲できる」などと言われた。しかし、全くそんなことにはなっていない。

 

それこそ、漫画や小説を考えてみたらいい。あれは紙とペンさえあればいい。道具だけなら、ずっと前から誰でもそろっていたのだ。しかし、皆が作れるわけではない。

 

結局、AIという究極のツールが登場したとしても、使う人間の能力がなければ何も作れないのだ。

 

なのに「作れる」と勘違いさせてしまうのが、AIの大きな罪だ。

 

飲食店やデパートの広告やポスターが炎上しているのは、そのせいだ。生成AIは絵を作り出せる。だが、それを掲載していいものかどうかは、AIには判断できない。

デザイン会社の仕事はデザインではない。審美眼による判断だ。その判断によって、デザインというアウトプットを出しているに過ぎない。

ここを理解できていないと、「アウトプットがAIで出せるならデザイン会社に頼まなくていい」と勘違いする。それがまさに素人考えだ。

その浅はかな考え、センスがないことの無自覚、または扇子があると勘違いすることによって、ありえない謎カレーや謎かき氷のポスターを作って炎上することになる。

 

逆にセンスがあれば、何もかも一人でできてしまうのが、AIのもう一つの怖さだ。

これまで器用貧乏と言われてきたような人、つまりさまざまなことをちょっとずつ理解している人が、ゼネラリストとしてとんでもなく伸びるだろう。

 

ちなみに自分で言うのもナンだが、私は器用貧乏だ。

 

「貧乏」返上は近い。

ゲーム専門学校の価値が無くなった

ゲームづくり4日目。めちゃくちゃ面白い。

自分のやりたいところから作っちゃうから、もぐらたたきゲームなのにタイトルロゴ表示や画面遷移、会話シーンから先に作り込んでしまっている。

特に、会話シーンやもぐらたたきのスクリプト、シーケンスに関しては、そのフォーマットの作り込みをAIと緻密に会話しながら、さらにはアドバイスも受けながら出来るから非常に捗る。

さらには、バグはAIが自分で潰してくれる。素晴らしすぎる。


ここまでやってみて、気になることがある。

もう本当に誰にでもゲームが作れる時代になったのだと。

カジュアルなゲームであれば、プログラマはいらない。

 

私は以前、専門学校のゲームクリエイター科で教えていた。
学生たちはそれなりに真面目にゲームづくりに取り組んでいた。そこで完成したゲームは正直とてもプロレベルには及ばない稚拙なものばかりだった。そして面白くもない。
これは、「技術を学ぶ」と「面白さを表現する」ことが全く別スキルであることが原因だ。

だが、今は技術を学ぶことをAIですっとばせる。面白さに全ふりして、自分の思い描くゲームを作れてしまうのではないか?

 

ChatGPTに月16500円払えばそれだけでいい。私はGodotを使っているが、それならゲームエンジンは無料だ。

 

そして、誰にでも出来る環境ということは制作環境自体にはもう希少価値はない。

そしてスキル。私の感覚では、少しゲーム制作の入門書を読めば事足りる。

なにより、ゲームの教科書はゲームだ。たくさんゲームをやれば、自ずとゲームに必要なことは大雑把に知ることができる。あと必要な知識は、PCの知識だ。

 

ぶっちゃけて言えば、もう「学ぶため」に専門学校にいく必要性は本当にない。専門学校で教えているのは「技術」であって「面白さ」ではないから。

 

専門学校にとっては困った時代になっただろう。


個人的には最高に面白い時代である。

ゲームを作り始めた

ずっと温め続けていたゲームの企画がある。
そろそろ時間に余裕ができそうなので、codexを使って開発を始めてみた。

やってみると、驚くほどに簡単である。AIが簡単にそれっぽいものを作り上げてしまう。それはもう拍子抜けするほどに。

しかし、それがクオリティ的に世に出せるかといえば全くそんなことはない。決めるべき要件は無限にあり、ひとつひとつ検証しては修正を繰り返す。

 

そんなずっと温め続けていたゲームのシステムのプロトタイプを作ってみたが、これが見事なまでに面白くない。そこが企画の怖さである。頭の中で面白かろうとも、作って見なくちゃわからない。

 

そこで何度も試行錯誤しながら、想定とは違うゲームが作り上がってきた。なんとか面白いものになりそうな雰囲気がしてきた。

 

この試行錯誤の回数が面白さに直結する。コンテンツ作りは作って終わりではない。

完成はいつになるのだろうか。楽しくも辛い時間の始まりである。

それぞれのオタククロニクル

昨日は、沖縄の旧知の仲間たちが集まる飲み会に参加してきた。

久しぶりに顔を合わせれば、自然と昔話に花が咲く。「あのころ、あんなことがあった」「あの店にはよく通った」と、誰かが忘れていた出来事を、別の誰かが覚えている。

ひとつの思い出が呼び水になり、記憶が次々とつながっていく。こういう時間は、何度経験しても楽しい。

その席には、最近『沖縄オタククロニクル』を出版した神野オキナさんも来ていた。

この本は、神野さんが幼少期から沖縄で過ごすなかで体験してきた、オタク文化にまつわるさまざまな出来事を記録したものだ。沖縄という土地で、同好の者達たちとつながり、文化を楽しんできたのか。

個人の記憶を軸にしながら、その時代の空気や地域ならではの事情まで伝わってくる。非常に面白い一冊である。

読みながら思ったのは、こうした記録を、もっといろいろな地域、いろいろな人の視点で読んでみたいということだった。

同じ作品を好きになった人たちでも、東京と沖縄では出会い方が違う。書店や玩具店、貸本屋、映画館、テレビ局の放送事情など、その土地の環境によって体験は変わる。

どこで情報を得て、どうやって作品を手に入れ、どんな場所に集まったのか。インターネット以前であれば、なおさら地域ごとの差は大きかったはずだ。

そして、それぞれの人に、それぞれの「オタクの歴史」がある。

私自身も最近、昔のことをよく思い出す。しかし、自分の記憶が意外なほど当てにならないことにも気づかされる。自分で立ち上げたサークルなのに、最初に出した本のことを間違えて覚えていて、メンバーから指摘されたこともあった。自分が直接体験したことだから正確に覚えている、とは限らないらしい。

だからこそ、今のうちに記録しておきたいと思う。

ひとりの記憶だけでは曖昧でも、みんなの記憶を持ち寄れば、見えてくるものがある。「自分はこう覚えている」「いや、その前にこんな出来事があった」と話し合うことで、忘れていたことがよみがえり、ひとつの時代の輪郭が少しずつ形になっていく。

自分自身の歴史を残すこと。そして、自分が過ごしてきた地域のオタク界隈の歴史を残すこと。それは決して大げさな歴史編纂ではなく、まずは思い出を語り、書き留めるところから始められる。

そんなことを理由にしつつ、集まる機会を増やすのもいいかもしれない。

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AIと包丁

AIは便利である。便利すぎる、と言ってもいい。

少し前まで、何か悪いことをしようと思えば、それなりの知識と技術が必要だった。偽の画像を作るにも、文章を大量に書くにも、架空の人物を長期間演じるにも、それなりの能力が必要だった。

 

つまり、悪意があっても「能力がないから実行できない」という安全装置が社会にはあった。

 

AIはその安全装置を外した。

 

ここで重要なのは、AIが人間を悪くしたわけではないということだ。

もともと社会に害意を持っている人、他人を騙したい人、混乱させたい人、政治的に操作したい人は昔からいた。ただ、その多くは実行する能力を持っていなかった。

 

AIはそこに能力を与えてしまった。

 

最近では、AIで架空の政治家を作り上げ、SNS上で長期間活動させるようなことまで起きている。実在する人物のように振る舞い、実在の議員がリプライすることで信用まで積み上がる。

 

それをやってる本人は面白半分、いたずら程度に考えていたのかもしれない。

しかし、十分に信用されたあとで寄付を募れば詐欺に繋げられるし、選挙前に政治的な発言を繰り返せば世論操作にもなる。大問題だ。しかし、意外にも世はそこに危機感がない。

 

AIは包丁と同じである。

 

料理人が持てば料理を作る。
犯罪者が持てば凶器になる。

 

ただ、AIという包丁はとても特殊だ。

 

これまで技術がなくて何もできなかった人間にも、突然かなり強力な実行能力を与える。

 

つまりAIによって悪人が増えたのではない。

今まで能力不足で表に出てこなかった害意が、AIによって顕在化したのである。

これは「AIリテラシーを高めましょう」だけで済む問題ではない。

 

こうなったら、問題が起きたときに誰が責任を取るのかだけは、必ず追跡できるようにすべきである。

SNSは匿名で発言する自由はあっていい。ハンドルネームでも構わない。しかしマイナンバーなりなんなりに紐つける必要はある。

 

AIという強力な道具を全員が持つ以上、これまで見えなかった害意まで社会に出てくる。その前提で仕組みを作り直す必要がある。

「魂を売った」という言葉は、軍事兵器かもしれない

軍事兵器を作る会社に対して「魂を売った」と罵倒する人がいる。

しかし、私はこの感覚を危ういと思っている。

現代社会で使われている技術のかなりの部分は、軍事研究と無関係ではない。インターネットの源流には米国防総省が支援したARPANETがあり、電子レンジもレーダー開発で使われたマグネトロン技術から生まれた。GPSもそう。

 

軍事研究から始まった技術が、後に社会全体のインフラになることは珍しくない。

つまり「軍事に関わる技術は悪」という単純な話ではないのだ。

むしろ怖いのは、防衛産業に関わる人間に「恥」を与えることである。

 

「兵器を作る会社は悪だ」
「そこで働く人間は魂を売った」

 

そんな空気が広がれば、技術者は防衛産業を避け、大学は研究を避け、企業は参入を避ける。結果、自国の技術基盤そのものが弱くなる。

 

敵国からすれば、工場を爆撃する必要すらない。

「そこで働くことは恥ずかしい」と思わせればいい。

もちろん、防衛産業を批判する人間が工作員だと言いたいわけではない。

重要なのは、その言葉が誰に利益を与えるかである。

情報戦では嘘を作る必要すらない。社会にもともとある反戦感情や企業嫌悪を増幅し、特定の方向へ向ければいい。

自国で兵器を作れるということは、兵器だけの話ではない。

通信、半導体、素材、ソフトウェアといった高度な技術を自国に持つということである。

そして、その中から次のインターネットや電子レンジが生まれるかもしれない。

「魂を売った」という一言で、その芽まで摘んでしまっていいのか。

 

情報戦における兵器は、兵器の形をしていないのである。これは陰謀論ではない。現実だ。