跡地

らいとです

2026年にイラスト・マンガ界隈で起こることを予測する

相変わらず各所炎上している生成AI界隈。

今後起こることを予想してみる。

 

来年の春頃から起こる予想です。

 

・AI使用を使用する商業漫画のヒットが多発

大手出版社の後ろ盾があり、マンガ自体が面白いので反発が継続しない。そしてその制作工程が公開されるが、作者はAIを使っているが絵がとても上手い。

 

・徐々に漫画家、イラストレーターがAIの活用を試みる

大手出版社が使うのであればとAIを忌避していた人たちが使い始める。元々上手い人たちなのであっという間にAIを使いこなす。AI使用がクリスタ感覚になる。

 

・AI絵師界隈が手描き絵師の生成AI使用に反発を始める

手で描ける奴らは生成AIを使うなと言い始める。AI絵師辞める宣言をする人が現れる。

 

・マンガ家が自身でAIアニメを作って、それがSNSでバズる

大手アニメ制作会社がついてTVアニメ化が決定する。

 

・反AI原理主義者は少し残るが、社会としては生成AIを受け入れる

 

ここまでが2026年末までに起こる。

 

そして、生成AIで楽できると思ってたのに、全然そうならないということに社会が気づく。

 

さて、当たるかな?

結果“と”過程の時代

妖怪をお題に詠む『妖怪川柳コンテスト』が、第20回で終了らしい。理由は「書いたのがAIか人間か、区別がつかなくなったから」だという。実に興味深い。


もともと私は、創作における「過程」をかなり重視しているのだが、これから先、その価値はさらに加速的に高まっていくと予想している。

誤解してほしくないのは、これはよくある「結果か過程か」という二項対立の話ではないということだ。

結果が良いのは当然であり、その上で、過程が検証され、その内容如何によって加点も減点もされる。そういう時代に向かっているという話である。


この川柳コンテストでいえば、AI使用は0点査定ということだ。

当然だろう。こうしたコンテストの目的は「川柳を作ること」そのものではなく、書き手に川柳を通して妖怪に思いを馳せてもらうことにある。

その目的が果たせなくなるのだから、コンテスト自体が幕を下ろすのは自然な流れだ。


この流れから見えてくるのは、AIを使って初心者が気軽にコンテンツを作って楽しむのは自由だが、それで作品が評価されても、作家が評価される時代は来ないという確信だ。


これまで何度も言っているが、問題があるのはAIではない。使う側の思慮の浅さ、理解度の無さだ。

例えばこの妖怪川柳でも、たとえ良い作品ができて「なぜこの表現をしたのか」と問われても、多くの場合は答えられない。

なぜなら、AIにやらせた行為は創作ではなく、単なるガチャだからだ。


では、どうすればいいのか。

時間をかけるしかない。日々の創作をどう進めているか、何を考えているかを公に、SNSで書き留めておくことだ。

それがやがて、作家としての確かな下支えになる。

仮にAIを使っていたとしても、その使い方に納得性があればファンに受け入れられるし、そうでなければ受け入れられない。それだけの話だ。


そして、それは今すぐ始めるべきだ。上手い下手は関係ない。

むしろ、下手なうちから始めた方がいい。その方が、作品の変化という文脈が生まれる。


今後のコンテストは、SNS上での過程公開を評価軸に組み込み始めるだろう。そして「人間性」も判断材料となる。

 

そこまで含めて「作品」として評価されるのである。

 

なんで経営者目線なん?

ゲーム会社に就職したことをSNSにポストした人に対して、「書くべきではない」「守秘義務がある」などと批判的なコメントが殺到した。結果、ポストした本人は記事を削除してしまった。


批判した人たちは、なぜ会社側の立場で発言するのだろうか。

どこの会社に勤めているかを公表できるのは、本来、当たり前のことだ。「情報漏洩で株価が下がったら責任を取れるのか」などと起きてもいないことを理由に批判するのは、ほとんどが無関係な第三者である。


まるでトンカツ屋の豚のマスコットキャラのようだ。

日本社会には、まだまだ“社畜体質”が根強く残っていると感じる。


従業員は、従業員としての価値を高めることに集中すればいい。経営者目線で語ったところで、経営者になれるわけではない。


就業時間前に着替えを強制するような「当然」とされてきた慣習も、ようやく疑問視され始めた。


自分がどこに勤め、どんな仕事をしているのか。

それを公に語れるのは、労働者の当然の権利であり、報酬でもある。

もし会社がそれを阻止するのなら、その分のギャラを上乗せすべきだ。

そして他人の報酬を、第三者が奪ってはいけない。

既存アプリへのAIの侵食

f:id:lisa-rec:20251107212222j:image

私が四半世紀以上使用している音楽制作アプリ「Cubase」が、先日メジャーバージョンアップを果たし、ついにCubase15となった。

今回の目玉はAIボーカルである。標準機能として歌声を生成できるようになったのだ。


さらに、曲の中からドラムだけ、ベースだけといった特定のパートを分離できる機能も搭載された。これもまたAIによるものである。


近年、AdobeGoogleスプレッドシートをはじめ、あらゆるアプリにAI機能が追加されている。

それによって、人間が手を動かして行っていた作業は確実に減少している。

ノウハウが失われていく懸念もある。しかし、きっとそれが時代の流れというものなのだろう。


これまでも私たちは、技術の進化に伴い、何かを手放しながら前へ進んできた。AIだけが特別というわけではない。

とはいえ、これからAIが肩代わりしてくれる範囲はあまりに広大であり、人間が積み上げてきた知識や勘がどこまで消えていくのか、正直、恐ろしくもある。

 


せめて、AIによって生まれた「楽になった時間」を、惰性ではなく創造に充てたい。

楽は陳腐化を招き、平準化を進める。ゆえに、仕事に新しい価値を付けていくことに終わりはない。

AIにあなたの「理想」は作れない

作りたいゲームのイメージ動画を作った人がいた。それに対して「将来理想のゲームをAIが作れるようになるだろう」とコメントした人がいた。

 

それは無理である。

 

理由は単純だ。

ひとつは理想をAIに伝えるのが非常に難しいこと。

もうひとつはゲーム理想自体を本人が理解していないこと。

 

ちなみにこれは専門家じゃない者の前提の話だ。専門家なら理想のゲームをAIで作れる可能性はある。理由は上記の逆だ。

 

素人の素人たる所以は「わからないことがわからない」だ。専門家に指摘されても「それは専門家の考えが古いからだ、AI新時代においては初心者でもプロ並みのものが作れるのだ」と宣う。さすが素人というべきか。

 

冒頭のコメントの人も「ゲーム」と「ゲームっぽい動画」の区別がついていない。

 

他者に何かを伝えるということは、伝えるための情報の本質を本人が理解してないといけない。

 

これは伝える相手がAIでも同様だ。

 

今生成AIで起こっている「すごい」動画や音楽の多くはプロンプトを入れた者の「理想」ではない。ぱっと見が綺麗に整っているから「理想」に思えてくるだけだ。

 

理想を具体化するためには、高解像度でディテールを詰めていく必要がある。今「AIには難しい」というのはそういう話だ。ネックはAIではなく人間にある。

 

イラストレーターに渡す参考絵をAIに描かせるなというのも、素人が出力する絵はノイズが多く参考にするべき部分がぼやけるためである。わかれ。

 

とにかくだ、初心者はベテランの言うことは素直に聞け。たったそれだけでクオリティが上がるのだ。

「うっかり差別」歓迎です

「うっかり差別」をなくそうという埼玉県のポスターがあるらしい。


人には本音と建前がある。この「うっかり差別」として例に出されているものは、建前からうっかり漏れ出たものであり、ほとんど攻撃的な意図はない。

いわば、ゲームで言えばガードしても少しだけ削られる“白ダメージ”程度だ。


個人的にはこの程度の差別は残しておいてほしい。なぜなら、相手の人間性を測る良い材料になるからだ。距離を置くべき人間は、早く発見できるに越したことはない。


基本的に差別というものはなくならない。啓蒙活動によって「言わない」ことはできても、態度や行動には必ず滲み出る。言葉ほど明確でないので対処がしにくい。


その点、「うっかり差別」してくれる人はわかりやすくてありがたい。


マクロで見れば、こうした差別意識への啓蒙活動には意味がある。だが個人レベルで考えた場合、他人に変わってもらおうとするのは土台無理な話だ。結局自分が動くしかない。


差別や見下しがなくならない理由のひとつに、「反撃されない」がある。某半沢ではないが、常にやられたらやり返すぐらいの意識でいたほうがいい。

これは後からではダメだ。即反撃することで、カウンター2倍ダメージになる。

 


そのためにはバッファが必要だ。まずは頑張って、時間やお金に余裕を持たせる。その蓄えが「いつでも反撃できる」という心の余裕になる。


余裕のないやつから喰われていく。人間世界も、結局は弱肉強食なのだ。

 

白ダメージを溜め続けないためにも、強く生きていこう。

アカ消しは「ブラック」である

「ネット」と「リアル」の境目は、いまやほとんど存在しない。

ネットはリアルの外側にある“もう一つの世界”ではなく、リアルに内包された一部だ。だからこそ、リアルでやらないことはネットでもやらない方がいい。


方々に迷惑をかけて居づらくなり、別の場所へ移る人がいる。こういう人は定住できず、場所を転々としている。

ネットの世界にも似たような人がいる。トラブルを起こしてアカウントを消し、ほとぼりが冷めるまで待てず、別の名前で“転生”して活動を再開する。


ここで言う「垢消し」は、信用の世界でいえば「ブラック」だ。

借金を踏み倒した人が履歴を消せないように、アカウントを消しても信用の履歴は消えない。むしろマイナスからの再スタートになる。


信用は時間の積み重ねだ。

人との関係は、アカウントごとリセットできるようなゲームのセーブデータではない。

むしろ、積み上げた信用を放棄して逃げるたび、次に築く信頼のハードルはどんどん高くなる。


引用ポストで他人を攻撃するような作って間もないアカウントは、おそらくその背後にはなにか"過去"がある。信用を積み上げられなかった人の典型だ。

そういう者の言葉は聞くに値しないし、それで自分の気分わ害されてやる必要もない。


信用経済の時代はすでに始まっている。

継続年数もフォロワー数も信頼残高の指標となる。

他人を攻撃して快感を得る人は、オオカミ少年のように、いざ本当に何かを伝えたいときには誰にも耳を貸されず、チャンスを逃すことになるだろう。


ネットの中でもリアルの法則は変わらない。

負の信用は消せない。積み上げるしかないのだ。