来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

「苦労教」の人々

苦労という言葉があります。

GOO辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/64812/meaning/m0u/
く‐ろう〔‐ラウ〕【苦労】
1 精神的、肉体的に力を尽くし、苦しい思いをすること。「―が絶えない」「―を共にする」「―の種」「―して育てた子供」 


手に入れたいスキルや目的があり、そのためにする苦労ならわかります。 
しかし日本では苦労自体を目的としているフシがあり、苦労は神様が見てくれていて、後々報われるという思想がそうさせてるのでしょう。私はそれを「苦労教」と呼びます。

本人が勝手に苦労する分にはいいんです。勝手に苦しんでてくれれば。問題は、苦労教の人々は苦労せずになにかを手に入れてる人に対して不公平だと感じるのです。


それはおかしい。

なにかを手に入れるために必要な「コスト」は、人それぞれに違います。 
ここでいう「コスト」は、車がほしいならバイトしてお金を稼ぐ時間や体力、大学合格なら合格ラインに必要な学力まで勉強量となります。
しかし苦労教の人々はこのコストを「苦労量」で換算します。 これだけの苦労をして車を手に入れた。苦学して大学に入ったと。


そして苦労教の人々は、苦労しても欲しいものが手に入らなかったとき「苦労が足りない」と考えます。つまり神様がOKと言う苦労量に達していないと。
だから、さらなる苦を探して懸命に苦労します。


しかし、世の中欲しいものを手に入れるための条件はわかりきっています。上手く行かないのなら、やりかたが間違っているのか、ベースとなる能力が備わっていないかです。


身も蓋もないですが、とばっちりは御免なのでいいかげんこの苦労教の人々には目を覚まして欲しいです。