来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

祝う理由はいくらあってもいいけども

「他者の結婚を祝う理由がわからない。」的な記事を見かけました。

私も似たような感覚があって、 昔は誕生日を祝う理由がわかりませんでした。
誕生日は1年経てば自動的にやってくるからです。私の感覚的には結婚や高校合格のような行動して得た結果でもない誕生日に祝う理由ってあるの?と。

そんな私も、同世代で亡くなる人がちらほらでてくると気づくのです。1年生き続けられただけで素晴らしいのだと。1年生きるためには、ちゃんとご飯をたべて、ちゃんと寝て、重い病気にかからず、事故に会わず、精神を病まないようにする必要があるのです。

そう考えたら、1年生きられたらじゃんじゃか祝ってもいいよね!と思うわけです。

というか、「祝う」ってそんなに厳密に理由は必要じゃないんですよね。理由はなんだっていいんじゃないかなと。

ただ「祝う」ということはそれが出来るだけの精神的・経済的な余裕が必要なので、冒頭の記事のような感覚の人が増えていくのなら、それは色々余裕のない世界になってきてるんじゃないかなと思います。

世の中が「祝いたい」から「祝わされてる」感覚になれば、今までめでたいとされたことは表立って言わなくなったり、イベントごとにも変化が出てくるでしょうね。