来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

「分人」は「複数の人格」ではないと思う

メタバースの本を読んだのですが、私の持っていた偏見が氷解したので結構良かったです。

ただ、分人という言葉の使い方が引っかかりました。メタバースならばアバターに寄って複数の人格を使いわけられるということに対し、それが「分人」と書いていたのです。

これから本を買ってちゃんと読もうと思うのですが、これまでネットで見た平野啓一郎氏の言う「分人」とは、複数の人格の使い分けとは違うと思うのです。

分人とはあくまで人格はひとつであり、その見せる部分が場所によって違うだからこそ見せる部分を分ける、だから「分人」呼ぶというのが私の読み取った解釈です。 

しかし、現実では理想の自分になれなかったけどメタバースであればなれる。というのは一見すると夢のある話に思えますが、人間そんな簡単に人格を使い分けられるはずがありません。

たとえば、Instagramのキラキラ系アカウントなんかも本当は金持ちでもないのに、まるでお金持ちのように見せかけているうちに現実と虚構の区別がつかなくなり破綻しまします。恋人や子供がいる「設定」というのも続けていくうちに自分の内部から壊れていきます。

誰にも見せない、空想としてやるならまだなんとかなるかもしれませんが、メタバースとか関係なしに、自分に嘘をつき続け、それをオープンにすることはかなりの危険を伴うことは留意しておく必要があります。

もちろん、人格を上手く使いこなす人もいるに入るでしょう。でも、それはメタ思考が使いこなせる人で10人にひとり程度じゃないでしょうか。 

メタ(旧フェイスブック)がやろうとしているメタバースはあくまで今の自分が入る自分の姿に似たアバターを指しているように見えます。しかし、日本人はTwitterやインスタのアイコンを自分の顔にしない人がほとんどです。
同じメタバースという言葉を使っていても、向かっている方向が日本だけちょっと違ってて私は結構危惧しています。今のままでは、世界的にメタバースが浸透しても、日本だけ特異な世界として孤立するんじゃないかなと。