来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

日本の教育は「宗教」である。

「学校の校則が変」という話が出るたびに「あれはいじめの原因をつくらないためだ」と反論をする人がいるんだけど、これ全然反論になってないですよね。実際のところは面倒を回避したいだけ、管理したいという欲望に負けてるだけで。

じゃあ実情はといえば、いじめは増える一方で学校は誠実な対応はせず重大事件を隠蔽するわけです。こういう話をすれば「ちゃんとしているところもある」という反論がくるわけですが、教育組織全体として考えれば、問題点があるとわかっている一部組織に我関せずと距離をとってる時点で私的には隠蔽している人たちと同罪です。いじめを見て見ぬフリと同じですね。これが「大人の対応」なら一体大人とは何なんでしょう?それで子どもに道徳を説けるとでも?

私が一番最初に学校の先生に不信感を持った小学1年から40年経つんですけど、今の学校教育も印象はなにも変わらないんですよね。先生が視野の狭い主観で生徒にモノを言い、時代の流れに無頓着、不勉強。

今日の日経新聞にも学校教育の記事で「紙と鉛筆じゃないと頭に残らない」という先生の声が載ってました。それが本当ならば、日本はPCを使用している他の国をあらゆる面で出し抜いているはずで、現状日本だけが一人負けの状況を一体どう説明するのでしょう?

Windows95が登場してから27年です。本格的に「パーソナル(個人)コンピュータ」が普及し、大きく世界を変え、誰しもがその恩恵を享受しておきながらPCでの教育を「学校で教えることが出来ない」「ゲームをするから」などという低レベルのことしか言えない人々が未だ多数存在するのです。しかも若い人にも。

どうしてこうも変わらないのか、なんとなく答えが見つかりました。

それは、日本の教育がある種宗教であり、目的は教育でも道徳でもなく「学校」という旧来の世界観の維持なのです。宗教だから校則は「戒律」であり、なぜ校則を守る必要があるのかなんて理由は意味を持たず、単純に戒律を守るということに意味があるのです。だから、生徒の人権を制限するということにもなんの疑問も持たないのです。なにかを抜本的に変えるということは教義に反することなのでしょう。

それならば、日本の教育を変えるのは「日本教育教」の解体という大掛かりな作業をしなければならないんだろうなと理解できるわけです。

他国の教育がすんなりICTを取り入れられたのは純粋に教育機関なのでしょう。だから合理的に新しい教育法を導入できる。だけど、日本の義務教育は9年かけた宗教的儀式なので、表面的に変わったフリはできても本質を変わることができないのです。

ただその宗教が斜陽なのは間違いなく、抵抗勢力が今後どうしていくのか、この組織が本来やるべきだった教育をしなかったことによる日本没落の責任をどう考えてるのか、興味あります。

その総括は20年後ぐらいでしょうかね。