来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

「リア充」「陽キャ」は本人だけで成立するものじゃない

Kindleアンリミテッドで『千歳くんはラムネ瓶のなか』を読んでいるのだけど、1巻のストーリーの流れにリア充の高校生の主人公が不登校になった典型的なオタクをリア充にしていくというくだりがあります。

前に見た、主人公がリア充ヒロインの元でリア充を目指す、アニメ『弱キャラ友崎くん』 と共通する感じ。

少し前に私への質問で「陽キャになったら何がしたいですか?」というのがありました。 

で、考えてみました。その際に考えるの前提として「中高生に”陽キャリア充として”もどれたら」ということだと思います。今40過ぎて陽キャもへったくれもないですから。

しかし、私の生まれ育った場所の中学、高校でいう「リア充」は思い返してみても全然そうなりたいと思えるような環境ではなかったのです。なんというか全体として知性と人間性が全然足りない感じ。
そんなんなら、放課後に毎日通っていたゲーセン仲間のほうが面白い人が多くむしろその場所ではすでに私は「リア充」で「陽キャ」だったのです。

 『千歳くんはラムネ瓶のなか』『弱キャラ友崎くん』 に存在する「リア充」「陽キャ」という世界は、そこに知性と人間性があるのです。あれが私の時代の中高だったらそりゃなりたかったでしょう。ある意味そういうまともに会話が成立する世界という部分がファンタジーなんですよね。

今の時代、それも偏差値高めの都会の学校だったらそういう世界もあるかもしれませんね。