来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

話したくないこと。やらなきゃいけないこと。

沖縄には慰霊の日っていうのがあるんです。6月23日で、この日沖縄だけは休みです。

慰霊の日(いれいのひ)は、沖縄県が制定している記念日で、日付は6月23日である。沖縄戦等の戦没者を追悼する日と定められている。
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で、こういうことってたいてい「忘れてはならない」って言うんですけど、私最近気づいたことがあるんです。

私が生まれたのは、戦争が終了してから30年後です。30年って言うと、今だとストリートファイター2が発売されたぐらいの年月です。そこそこ歳を重ねると、30年って案外昔ではないことがわかります。

それなのに、私が子供の頃、日常の会話の中で戦中の話を聞いたことはただの一度もありません。これはむしろ不自然なんです。今は会話の中で三十数年前のこととか普通にありますから。だとすればそれは、忘れたわけではなくおそらくは「忘れたい過去」であり「話したくない過去」であえて触れていないのだと思います。戦争を体験した大多数の人はそんな感じじゃないかと思います。

だから震災のときにも思ったのですが、正直「忘れてはならない」って大声で言うのはとてもデリカシーが無いなと思うんです。みんなきっと忘れたいけど忘れてないですよ。あえて何も言わないだけで。

この「忘れてはならない」は当事者ではなかった私達にも向けられていると思います。戦争が会ったことを忘れるなと。ただ、これはこれで、当事者ではないものが知ったふうに戦争を語るというのも、それは別の意味で危うさがあると思うのです。

だから、私は客観的な事実にアクセスしやすくしてほしいです。あのとき何が起こったのかを。感情ではなく事実を突きつけてほしいのです。私は記憶と感情を信じていません。自分も、他人も。記憶も感情は時間や体調によって変化しますから。

「戦争をしたい 」という人間はほとんど居ないでしょう。ただ「やむを得ず」と付け加えた途端戦争は沢山の人々に肯定されます。だから「やむを得ず」をつけられないような状態を作る必要があります。そのための情報を。

いまウクライナで戦争が起きています。これでわかったことは「戦争反対!」と叫んだところで戦争は起こるということと、人間合理的な判断だけで行動しないということです。

もちろん戦争反対を訴えることに意味はあります。ただ、それと当時にそれが起こらないようにするよう裏で手を回し続けないといけないんだなと。

感情だけでも駄目。合理性だけでも駄目。その両方を上手く使い分ける。

世の中は単純がいくつも掛け合わさり、とても複雑なんだなと思います。