来兎の研究室跡地

作曲家、来兎の雑記です

差別の歴史を風化させると悪いのか?

とあるテレビ番組で、沖縄出身のタレントに「沖縄方言禁止」というゲームをやったことが批判されています。

沖縄は過去に弾圧され沖縄方言で話すことを禁止された歴史があります。

それで「このゲームは差別だ、こんなゲームをやってしまうほど差別の歴史は風化してしまった」というような論調で番組が批判されています。

しかし、私としてはこの批判自体がとても滑稽に思えます。

差別批判している人たちは差別をなくしたい人のはずです。しかし、この番組の「方言禁止」は沖縄差別ではないと思われます。なぜなら、他の地方の出身タレントも同じゲームをしているのです。あくまでこれはゲームであり、うっかり出てしまう方言にある意味地元愛を感じるゲームとも言えます。

私は番組を見ましたが、差別意識は全く感じませんでした。(ただ、沖縄方言が下手な人がゲームの質問者になってたり、テロップの方言の拾い方が雑なのが気になりました)

差別の本質は「差別意識」だと思います。この番組での沖縄の扱いは他の地方と変わらないものでした。このゲームが企画されたこと自体が、沖縄を差別していた歴史が風化し忘れられ、差別がなくなった証拠とも言えます。

それなのに、わざわざ差別をされていた歴史を蒸し返し表面的なことに目を向けて差別だと言う人達は、むしろ沖縄への差別がまだあって欲しいようにすら見えてしまいます。

 

誰も差別をしていないのに。

 

よく戦争や震災の歴史を風化させてはいけないという論調があります。これは、覚え続けることで戦争の抑止力になり、震災への備えになるので良いことだと思います。

しかしそれと差別は同じように語れません。差別があった事実を歴史として記しておき、皆の心からは消えてしまったほうがいいはずです。

ちなみに私の人生では、中学のとき福岡で明確に沖縄の人間への差別意識を向けられたことがあります。ただ、後にも先にもこれ1回だけ、30数年前です。

 

私は沖縄で生まれ育った沖縄県民ですが、住む場所も仕事を選べ、沖縄から県外や海外へ移動することも自由にできるのです。なにか問題があるのでしょうか?